*The Calculus of Consent: Logical Foundations of Constitutional Democracy* by James M. Buchanan and Gordon Tullock
ブキャナン&タロックは、従来「経済的」な政治学と呼ばれていたアプローチ (たぶんマルクス主義のこと?) は、ブキャナン&タロックの公共選択論とは異なり、
個人ではなく集団を単位とし、
人は効用追求ではなく権力追求を目指し、
政治を契約的なものというより搾取的なものとみなしていた
と言ってた (うろ覚え)。
単純なモデルなのに、ちゃんと近代国家みたいなのが正当化できそうですごい
今まで聞いたことがあった合理的選択モデルの政治論は 人々が羊を放牧してて食べ尽くして衰退→政府があると防げる みたいなレベルの話だったけど、そこから憲法とか公私の区別とかが出てきて、宗教の自由とかもありそうな感じになってる。
自分の中の合理的選択モデルの社会契約論のイメージがやっとホッブズから近代国家、リベラリズム? みたいな感じになった
たぶんホッブズの次にBuchanan & Tullockが出てきて、名誉革命とかアメリカ独立とかフランス革命を引き起こしていったに違いない (歴史改竄)
どこまでが自由で、どこからが集合的意思決定によって規制していい/するべきか、という問題に、納得できる、体系的な答えを出してる感じ
危害原理に並ぶ新たな指針?
どこまでが自由であるべきかという条件を体系的に考える上で、他に有益そうなもの:
この論文には社会規範・社会的制裁によって縛ることがどこまで認められるかについての話が含まれてる
もっとも、犯罪の成立条件を有責性と違法性に分けたときに、有責性の方に当たる議論 (これは比喩) が主だけれど、違法性 (こっちのほうが自由に関わる) に当たる話もしてる
Nick Bostrom
市場には意思決定に参加していないのに影響を受ける人が被る外部費用があるから効率的でないことがあるよね
騒音など
→ でも政治も、政治的意思決定に賛同しなかった人 (負けた側、そもそも参加していない人) が被る費用があるから外部費用を発生させてると言っていいね
→人々は、「市場による意思決定方式により自分が被るであろうコスト」と「政治による意思決定方式により自分が被るであろうコスト」 (の期待値) を単純に比較して、後者のコストが高ければその領域に政府は介入してはいけない (私的領域?) という憲法に同意する。
人々は、憲法制定の社会契約というのにのぞむ。人々は自分が政治的に勝つ側になるか負ける側になるか知らない (無知のヴェール?) ので、期待値で自分が政治に押し付けられる方の期待コストが高いか、自由な行為から押し付けられる期待コストが高いかを考え、前者が高ければ、それは政府が介入できない領域とする憲法に同意する。
「領域」って?
ayu-mushi.icon政治的な勝敗についてだけ無知のヴェールを認めることは一貫した態度なのでしょうか?
無知のヴェールがない世界で、すでに多数派だと分かっている人が自由を認めるのは純粋に利他的な動機に頼るしかないのか。(ちょうど、無知のヴェールがない世界で豊かな人が自分の財産を手放して貧しい人に与えるには、利他心に訴えるしかないというように)
つまり、炭疽菌の管理とかが、個人で自由に所有されるのではなく、共同で行われることは良いということになる
この仮想的な社会契約では、全会一致で憲法が採用されるとしている
選好が多様・二極化してるとかの場合は、政治による外部費用が大きい?
政治による費用は、どの政治システムかによって異なる。
意思決定に賛同しなかった人が被る外部費用と、政治的同意に至るまでの駆け引きにかかる意思決定費用がある
全会一致制でも、みんながwin-winになる政策を提案するというのを繰り返せば、パレート効率まで持っていける。(本当??) ただし、お互いの選好を知らないので、「どうしよっかな〜〜 あとちょっと、もうちょっとお金🤏🤏くれたらこの政策に同意してあげてもいいんだけどな〜🤏🤏」 (本当は今提案されている政策でも、交渉決裂するよりは同意したほうがいいとわかっているのに、みんなにそのことをしられていないのをいいことに、お金をせびる) みたいな駆け引きが生まれるため、合意に至るためにコストがある。これが意思決定費用。
いや、上の方の章ではお金を渡すというのは考えてないか
「自分の部屋着を選ぶのに国民の全会一致が必要」という狂ったシステムを考えても、嫌がらせか他人の部屋着にこだわりがある人がいなければ、他のみんなに1円渡せば着る本人が好きなものを着れる? (これは他人の部屋着にこだわりがある人がいない、ということがわかっている場合)
イニシアティブを取るのが誰かに依存しないの?
仮に誰かが拒否権を発揮しても、それは空脅しに過ぎないと分かっているので
コミットメントメカニズムの有無にもよりそう?
消費者の効用関数を知っている生産者が第一種価格差別で消費者余剰を全部取る
全会一致は外部費用がゼロで意思決定費用が高い。政策が通るのに必要とする人数が高いほど、外部費用 (の期待値) は下がり意思決定費用は上がる。
vetocracy: タバコを吸うためには周囲の全員から許可を取らなければならない
bulldozer: タバコを吸うのはその人の自由
憲法制定段階で、政治システムを決める。憲法制定が全会一致だからといって、政治システムまで全会一致にするとは限らない。なぜなら、政治的に誰が勝つかまだわからない状態では、全会一致より少ない人数で可決するシステムにした場合でも、期待値 (繰り返し政治プロセスを行って長い目で見る) で見ればみんなにとってプラスということがありえるから。各人は自分が被るであろう意思決定費用と外部費用を考えて政治システムに賛否の意見を持つ。
競争市場じゃなくて、固定した2者間の取引 (双方独占 bilateral monopoly) でも、win-winな取引が繰り返されて、それ以上win-winな取引がなくなる点 (パレート効率) までいくというのは言えるわけだね。
エッジワースボックス
ここでは消費者・消費者だけど、生産者と消費者の場合でも使える?
信教の自由とか言論の自由の根拠もここから言えるかも?
他の人の嫌な発言を見ることによって被る費用よりも、政治的に勝った側に入れなくて、検閲を行われることによって自分が被る費用の期待値の方がみんなにとって高いので、政治的に自分が勝てる側に入るかわからない憲法制定段階ではみんな言論を政府の干渉外とすることに同意する、みたいな
実際、言論が及ぼす嫌さ、不快感 が低いかって言ったらそういうことでもない気がする
In many cases, this conundrum is one of the deep reasons why the concept of "freedom" is so valuable. If someone says something that offends you, or has a lifestyle that you consider disgusting, the pain and disgust that you feel is real, and you may even find it less bad to be physically punched than to be exposed to such things. But trying to agree on what kinds of offense and disgust are socially actionable can have far more costs and dangers than simply reminding ourselves that certain kinds of weirdos and jerks are the price we pay for living in a free society.
Suppose I am a radical Catholic who believes all Protestants deserve to die, and therefore go around killing Protestants. So far, so good.
Unfortunately, there might be some radical Protestants around who believe all Catholics deserve to die. If there weren’t before, there probably are now. So they go around killing Catholics, we’re both unhappy and/or dead, our economy tanks, hundreds of innocent people end up as collateral damage, and our country goes down the toilet.
So we make an agreement: I won’t kill any more Catholics, you don’t kill any more Protestants. The specific Irish example was called the Good Friday Agreement and the general case is called “civilization”.
So then I try to destroy the hated Protestants using the government. I go around trying to pass laws banning Protestant worship and preventing people from condemning Catholicism.
Unfortunately, maybe the next government in power is a Protestant government, and they pass laws banning Catholic worship and preventing people from condemning Protestantism. No one can securely practice their own religion, no one can learn about other religions, people are constantly plotting civil war, academic freedom is severely curtailed, and once again the country goes down the toilet.
So again we make an agreement. I won’t use the apparatus of government against Protestantism, you don’t use the apparatus of government against Catholicism. The specific American example is the First Amendment and the general case is called “liberalism”, or to be dramatic about it, “civilization 2.0”
どちらのケースでも、リベラリズムとは、(他人はどのように行動すべきかという)個人の私的な道徳的見解と、(理に適った形で他人に強制できるのはどのような行動かという)個人の政治的見解を区別することからなっている。リベラルな寛容の基本公式は非常に単純だ。あなたは、誰しもと同じように、自身の生き方が正しく他人は間違っていると考えている。だが同時に他人もまた、自分の生き方が正しくあなたの生き方は間違っていると考えている。あなたはこのことを認識して、自分の生き方を他人に押し付けようとするのを控えることに合意し、それに応じて他人も、自分の生き方をあなたに押し付けるのを控えることに合意する。それゆえ国家による強制力の使用は、誰もが許容できないと合意できるような行動をとった場合に限定される。
危害原理を憲法に書くとかではなく、なぜ項目ごとに「○○の自由」が憲法にあるのかを説明できるかも?
他人に危害を及ぼさない場合も自由な場合の外部費用は自明に集合的意思決定の外部費用以下になるので、「他人に影響を与えない行為の自由」も当然にブキャナンのいう憲法制定社会契約で作られる憲法では
危害があっても禁止すべきではないものは何かというのがブキャナンの話で
憲法改正には何%の賛成が必要とするべきか
ブキャナン&タロック的には100%だよね
100%の賛成で、100%より低い割合で憲法改正できるということにするということに合意するということはありえるけど
社会的制裁も外部効果を与えてると言えるから、社会規範の是非の判断にもこの枠組み使えそう。社会規範の対象にならない領域。社会規範は多数派が有利として、自分が多数派に入るか入らないかわからない状態から憲法制定をする。
"社会規範の公共選択論" が必要かもしれない
多元的無知みたいなことがあると、多数派でも社会規範で不利になることがある
共有知識
自分もやってるので強くは言わない、お互い様、「お前だって」 みたいな感じで、交流のある集団内においては行為の外部性とそれを非難するという行為の外部性がバランスしてるけど、交流がない集団に対する外部性に対するサンクションがなかったり
非難というのは個人で行使できるのでそれに注目するのはいいかもね
非難は一人が他の人の許可なしに開始できるので、Nick Bostromのいう Unilateralist's Curse になるかも
Buchananの言い方では外部費用が高く意思決定費用が低い制度、Vitalik の言い方だとbulldoser
自由/組織/国家 のコスト比較を行っていたけど、それに「社会規範」も加えて比較するという
ayu-mushi.icon服は地位財なので外部性? を持っている (『反逆の神話』) が、一方、学校の制服強制には、ジェンダー非典型的な生徒やイスラム教徒? (もちろんそれ以外にも) へ外部費用ある。
生徒の何%の投票で採用されるというのにしたら?
それはジェンダー非典型的な生徒への対応はできない
学校選択の余地が大きいとしたら、反対する生徒は制服がない学校を選ぶので外部費用は減ることになる
ネットワーク外部性が大きいものは公的な方、集団的意思決定で決めていいほうに入る?
自由の領域と集合的意思決定の領域を憲法制定契約で割り振っているけれども、所有権の初期分配をどうするかといったことは憲法制定契約においては論議の対象にならないの
財産の分配が決まった状態から社会契約を始まるというのは既存のお金持ちに有利なバイアスになる。なぜ、何も財産が保証されていない自然状態からはじめないのか。その場合は、力持ちに有利なバイアスがあるけど。
生産手段の公有化は憲法制定契約で禁じられるか
臓器くじについてなにか言えるか
ペドフィリアの人をスティグマ化するべきかとか
スティグマ化することによるコストのほうが大きいかもしれないし、それによって抑止される不幸な性的イベントのコストのほうが大きいのかもしれない
市場、政治だけでなく、その中間の「組織」「契約」というのも考えてる
ところで、契約の自由というのは、実は個人の権利というよりも、2人の同意で契約が締結できるという場合なら「2人からなる全会一致の議会」みたいなものと考えたほうがいいのかもというのを思いついた
任意の決定は、そこから影響を受ける人の全会一致で締結できる
理論上は、雇用が一方的にできるというシステムも考えられる
それは奴隷制のことでは
組織にはカルテルも含まれる?
考察されてるのは自由vs.組織vs.政治だけど、なぜか他人の服を選べる (マイナンバーが1つ上の人の服を選べるみたいな) みたいなシステムとかも考えられそう
この場合でも、マイナンバーが1つ下の人にお金を送れば自分の好きな服が着れる